こんにちは、ヒメです。
今日は英語に全く関係ない話。
今月、2021年3月、53歳で放送大学を卒業しました。
だから何?という話なのですけど。
今までブログでも言及したことがなかったし、人に言うことでもないので、このことについて書くつもりは全くありませんでした。
しかし世間では、放送大学を大学として好意的にみないという意見があるのを知り、書こうと思いました。
今、卒業証書を手にし、「私の大学のかたちはこれでよかった」と心の底から満足しています。
卒業となって振り返ると、この学生であった期間は、私にとって、学業と合わせ人生の多くを学んだ、大きな節目の時期となりました。
なので、自身の覚書として、卒業文集代わりに卒業までの記録をここに残しておこうと思います。
親不孝と大学への未練
私の時代は、大学を卒業して(女子は短大、専門学校を選択する人も多かった気がします)就職して、結婚して、というのがスタンダードな時代だったと思います。
私も中学生までは何も考えず疑わず、大学へは行くもの、なんなら留学もするかもしれないと思っていました。
しかし、15歳のある日、父が突然亡くなったことで人生は白紙に戻り、思い描いていた未来はどこかへ消えてしまいました。
父が突然いなくなり、もう勉強する意味もわからなかったし、経済的にも大学へ行くことはできないし、将来何になりたいという思いはなく、早く自立しなくては、という意識に変わりました。
それでも高校へ行かせてもらい、その後、専門学校へ進むも1年で辞めてしまい、それとは全く関係のない職業につき、しかも就職もせずに自分で仕事を始めてしまいました。
自分らしく自由に生きているようで、内心は、学費を出してもらった母に対して申し訳なかったという気持ち、
もし父が生きていたら大学へ行っていたはず、という悔しいような気持をずっと抱え、これらを克服するためにいつか大学へ行きたいと思っていました。
それに加え、20歳から始まった海外ひとり旅の中で、色んなことを体系的に学んでいれば旅はもっと充実したものになる、とも常々感じていました。
いつか大学への夢
30代に一度、大学へ行こうか真剣に考えたことがあります。
当時考えていたのは、仕事を辞め、受験をして一般的な大学に通うというものでした。
周りの友人にちらっと話すと、「ヒメはネイルができて、すでに自分で稼いでいるのに、大学なんて必要ないよ」という感じのものでした。
私自身も、大学へ行ったとして、職業を変えるつもりはなく、仕事も楽しくやりたいこともあったので、ならばもう少し先、年を取ってからでもいいかもしれないと思い直しました。
恩師との出会い
大学へ行きたいという思いは消えなかったものの、現実的にしっかりと考えているわけでもなく、人生を終えるまでにという気持ちでいました。
そんなある日、40代の後半、とある会合にて某大学の教授と知り合いました。
のちに、色々とお話しをする機会があり意気投合し、その教授と共にネイルに関するボランティアのプロジェクトを一緒に行うことになりました。
その際、自分の経歴を話したのですが、その中でいつか大学へ行きたいと考えていると話したことを覚えています。
放送大学入学のきっかけ
ほどなくして、放送大学の資料が家に届きました。
同封されていた手紙には、
「私は放送大学の回し者でもなんでもありません。しかし、このような大学のかたちもあります。
お金も時間もかかります。お給料が増えるわけでもありません。しかし、必ずや人生豊かなものになります。
入学試験はありませんが、卒業率は低いです。でも、ヒメさんはそれができる人だと思っています。
もし、決断されるのであれば、私が卒業まで全力でサポートします。」(こんな感じだったと記憶しています)
突然降ってきたチャンスに感動したのを覚えています。
友達でも、家族でもない、赤の他人が手を差し伸べてくれるなんて。
それまで放送大学のことは全く知らず(名前は聞いたことがあるかも?くらい)、
いつか行きたいと思い描いていた大学のカタチでは全くなかったけれど、チャンスだと思いました。
本当にやり遂げられるか?自問し、数日後、のちの恩師となる教授へ、入学を宣言しました。
恵まれた大学生活
放送大学は、通信制大学という通り、本当に独学です。
勉強のことや大学のことについて聞ける先生もいなければ、学友もいません。
周りにも言わずこっそり入学したし、夫や子供に相談といった家族もいないし、自分のペースで学べる反面、わからないことだらけ。
放送大学で学ぶ大半の方は、このようなスタートなのではないかと思います。
そんな中、
入学前から、恩師のサポートを受けていた私は本当に幸せ者です。
初めての1学期、これを学んでみたいと思った5教科を取りました。
そのラインナップを見て、「ヒメさん、チャレンジャーですね。選択肢が面白いですね」と恩師は言ってくれたのですが、
のちに、内心は大丈夫か?と心配されたと話してくださいました。
高卒で、専門学校も1年で辞めてしまい、勉強といった勉強をしてきた経験がなく、
それから30年経ち、選択するにはハードルが高い科目だったようです。
案の定、
1年目の1学期は超・ハードでした。
特に、数学。
簡単な足し算引き算、掛け算割り算、これ以上何が必要なのかわかりません、という状態だった私は、
選択した科目に取りかかる前に、中学数学の参考書から始めなければなりませんでした。
それから苦戦したのは、レポート。
文章なんて、仕事で報告書を書いたり、自分の分野のテキスト作成したりする程度で、ちゃんとみてもらったこともありません。
学期末、50分の試験時間、出された質問に対して800字ほどの記述で自分の意見をまとめるという1択問題。
緊張と未だかつてない集中のあまり倒れそうになったのを今でも思い出します。
幅広い選択科目に救われる
そんな恵まれた大学生活でしたが、唯一の家族である母の様子に不安を覚え、30年ぶりに同居を始めてからは、大変苦しい日々がつづきました。
家族がいらっしゃるかたは、その合間を縫ってこうして勉強しているんだろうな、ということを学びました。
そして、ここで、放送大学の素晴らしい利点を見つけました。
放送大学は教養学部のみであり、選択したコースにより規定はあるものの、様々な分野の科目を選択し学べるのです。
そして、それら選択教科の中には、心理学や健康などに関するもの、哲学関連の教科が沢山あります。
たったひとり自宅で母をサポートする中で、心が押しつぶされそうなことが幾度となくありました。
そんな時、母のことや自分の精神状態など、色々と理解する助けになるようなことを学べたことは、大きな救いにもなりました。
学習の仕方を学び楽しかった
もともと少々オタク気質なところがあり、色々なことに興味を持っては、熱しやすく冷めやすいところのある私にとって、ひとり自由に自分のペースで学べる放送大学は合っていたのかもしれません。
様々な分野の科目が学べる事で、好奇心が満たされるということも大きなポイントでした。
そして、ひとり学習する中で、自分なりの学習法も見つかってくるのですが、そのプロセスも楽しかったです。
自分の興味のあることについて、放送大学のテキストをベースに深く掘り下げ学習するのですが、この過程も楽しかった。
そして、通信とはいえ、コロナ以前は、都内の自分のセンターで勉強することも多かったのですが、これがちょっとした気分転換にもなるし、勉強も捗り楽しかったです。
私は不特定多数の中に入って上手く人とつき合う、ということが得意ではないので、そういうところを気にせず勉強できたこともよかったと思います。
随分と遅れて学生になりましたが、私にとっては、人生色々な経験をしてから学生になる必要があったのかなと思っています。
卒業の時
そんな、素晴らしい大学生活、そして学びの内容だったのですが、少しばかり残念だったこともあります。
それは、
卒業した暁には、専門学校をやめてしまったことを母に謝りたいと思っていたのですが、叶わなくなってしまったこと。
それと、
卒業という、最後のけじめみたいなものが、BS放送であっさり終わってしまったことでした。
コロナの中、一般的な大学でさえオンラインへ変わる中、そもそも通信なのであたりまえなのですが、卒業した感がなく少し寂しかったです。(後日、郵送で届いた卒業証書を手にしたら実感が湧きました)
そんな中、恩師が祝賀会をしてくださいました。
その席で、「私もヒメさんと一緒に色々学び楽しかった。卒業が決まってとても嬉しい」と大変喜んでくださいました。
先生のこの言葉に、入学からの思い出が走馬灯のように駆け巡り、号泣寸前、涙をこらえるのに精一杯でした。
6年に及ぶ学生生活を、最初の手紙の言葉通り、全力でサポートしてくださった先生。
時にはレポートの赤ペン先生になってくださり、時には図書館で何時間にもわたり私一人の生徒のために講義をしてくださり、プライベートで悲しみに暮れそうなときには素敵な本を贈ってくださり、
そして何より、できの悪い生徒の私を最初からゆるぎなく信じきり、褒めて褒めまくり、おだてて、卒業のこの日までへ導いてくださいました。
全てボランティアです。
恩師から受け取ったバトン
あるとき先生に聞きました。
「こんなにしていただいて、どうしてよいか、どうお礼をしたらよいのかわかりません」
すると、
「私にも恩師がいました。今の私があるのは、その恩師のおかげです。もしヒメさんが、どうしたらよいものか、と思われるのであれば、私からのバトンを何かの形で次へ渡してください。」
想像もしていなかった答えが返ってきました。
私の放送大学生としての時間は、大きな悲しみもあったけれど、とても素晴らしいものでした。
本当に恵まれた学生生活でした。
この年齢になって、恩師(別大学ですが)に出会い、考えられないようなサポートで卒業まで導いていただいたこの幸せは、感謝という言葉だけでは表せません。
周りの人が私の大学生活にどんな評価をしようと、どうでもいいことです。
自分自身が、本当に素晴らしい時間を過ごし、幸せを感じ、今後の人生にその学びを生かせるのであれば、それでいいと思いました。
そして、ひとそれぞれの大学のかたちがあってもいいとも思いました。
恩師から渡されたバトンは、必ずや次の誰かに渡せるような人生を、この先歩んでいきたいと思います。
2021年3月31日
ヒメ
~たったひとり、放送大学へ入学、学ばれるかたへ~
放送大学にこれから入学、学ばれるかたで、何か迷うことや相談などがもしあれば、私でよければ↓メッセージをいただければと思います。
卒業生のひとりとして、何かお伝えできることがあるかもしれません(お役に立てず、話し相手で終わってしまう可能性もなくはないですが(笑)。